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2016年3月7日月曜日

家庭内別居から別居へ

8年前に夫がノイローゼになった。全く人が変わってしまった。けれど、子供と共に懸命に受け止め、別人になってしまった彼を認め、理解してきた。

しかし、彼は私が妻だというかつての生活を、母親の部分をのぞいて、受け入れてこなかった。男女ではなくなって、もう8年である。

服薬も治療も拒み、解離をおこして私や子供に声を荒げたり、思い込みの記憶に固執して覚えもないのに責められる症状は、今も残る。

感情の起伏も激しく、目を合わせられず、片付けられず、頼んだ家事も三年以上放置ということもままある。

帰宅は深夜、休みは別々。

母親としての家事や義務、父親不在の家庭で父親役と自分の心をコントロールする日々。こなす中で子供のメンタルも崩れた時期が長かった。

それでもここ数年、夫の最大の負担であったと思われる経験を全て、自らがしたあとで、ようやく分かり合えると思い暮らしてきたのだ。

だが、夫は何も変わっていなかった。

8年前、心が変わってしまってから私の譲歩も理解も意味など全くなかったのだった。

振り返れば、私は8年間、ただ育児のためと経済的な支えの一部として夫には存在していたらしい。分かり合えない、やはりやり直せないと言いながら、具体的な行動は何一つ夫のサイドからおこしてくれなかった。毎回そう聞くたびに懇願した。あなたもそういうなら動いてください、と。彼は動かなかった。

私は動き続けた。キャリアがアップしたら、だとか、彼の趣味をもっと理解したら、だとか、色々と動いた。動き続けた。何が気にくわないのか、理解できなかったから、別人となった夫ともう一度夫婦になろうと試みていた。8年前から数日前まで。

寄る年波には勝てない。昨年のはじめに疲労で体を壊してから、親の大病が重なり、やむなく一時的にフルタイムを抜けた。親の介護をしながら、子供の大学受験を支え、空いている時間で資格を取り、アルバイトもしていた。

そんな私を夫は「言い訳をして働かない母親」と子供には言ったらしい。ショックだった。8年間、休みもほとんど家にいないし夕飯も子供と食べない男が何を言うのだ、と思った。

離婚は子供が大学に行ったタイミングでと、昔から話し合っていた。けれど、少しずつメンタルが落ち着いて見えた夫と、色々とすれ違いがあっても、もしかしたらもう一度やりなおせるのではないかと、考え始めていた矢先に引越の話が持ち上がった。

彼は私に買う家はないと言った。子供には買えるから離婚して他人になった上で子供の面倒をみて、さらに家のローンを払うためにフルタイムに復帰して自分の母親の面倒を見ろと言ってきた。

あきれたことに、その提案に私が喜んで乗ると思っていたというのだ。

つまり、夫にとっては夫婦として心を込めて暮らしてきた私とは真逆に、最初から私をそうとしかみていなかったということなのだろう。

8年間の家庭内別居の生活を振り返ってきて、過去、このブログ用に書かれた自分の文章を見てみると(今は自分しか読めないようになっています)、最後まで結論を変えなかった、好き勝手に振る舞い、壊し続けて、ただ受け身のまま、私を厭ってきた夫との日々が思い出される。

こんな結果が待ち受けているなら、私はこんなに全身全霊で愛することもなかっただろう、と思える。

子供が成長するまでの8年間は24時間、朝も晩も仕事の間も寂しかった。昔の優しかった夫を思い出して、再婚も考えたけれど、結局は夫が元に戻る日を願って、あらゆる努力をした。

全部無駄だった。

夫と出会って23年となる。初恋の人だった。青春も、キャリアが積めるはずの時間も全部家庭に捧げた。

全部無駄だった。

けれど、私だけには「苦しい時も病める時もあなたの伴侶として愛しぬくことを誓いますか?」という婚前の誓いを全うしたという自己満足がのこった。
そして、からっぽの心が残った。

離婚のために家庭内別居から別居に切り替える話し合いを始めた。

家庭内別居から別居まで8年は長すぎる。よく耐えた。そして、本当によく自分を殺した。殺しすぎて、もう本当の自分がどこにいるのかわからなくなった。

このあと、私が別居から離婚までどうやって自分を取り返していくのか、私もまだ知らない。気が向いたら、またここに書き残そうと思う。


追記/離婚を受け入れた日に、偶然、一番苦手だったジャンルの国家資格合格がわかりました。たいした資格ではないのですが、今まで書いたり、ナレーションをしたり、教えたりしてきた自分が、まったく違う仕事への切符を手にした気分です。これは私の武器となるでしょう。またひとつ、できることが増えそうです。






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