別居が決まってもパパとママ
子供の前でいきなり夫が離婚をぶちまけ、「離婚の上、家事従事者としてなら俺の買う家に子供が大学卒業するまでなら居候していいよ、ただし家のローンも払ってね」という、びっくり仰天の条件を丁重にお断りして一週間。
大学に入る子供は、とても愛されてきたので状況が飲み込めない。幸い地域や高校に多数頼れる大人の方がいて、みなさんにサポートされていて、本当にみなさんを拝みたい気分だ。
私には何人か離婚後再婚しておしあわせになった友達がいらっしゃり、ネット越しに、または直接会って励ましてくれる。
こういう時に同性しか頼りにならないなあ、と心から思う。
今の住処は私の親の持ち家なので、夫に出て行ってもらい子供の下宿先としての別居をすることで話がまとまった。
一方、日にちが経ち、子供の落ち込みは加速している。
父親のノイローゼを知っていたけれど、父親が母親には家も買えない程度しか愛していなかったこと。
悪気もなく、屈辱的な提案を私にしたこと。
自分の前で仲良くしていた姿は、(私は夫を愛しているので離婚を受け入れるのだが、夫の場合は違う)世間の夫婦より純度が低かったこと。
私も子供も、夫が私たちを嫌いだとは思わない。
都合良く、彼の器の範囲で愛しているのだと思う。
それを精神的に健康な人間ならば責めてしまいたくなる。しかし、彼はノイローゼを愛し(病気でいる苦しみの方が生きるよりはるかに楽なのだろうと私には思えてならない。語弊がある表現だと知ってはいるが、子供や私、私の親類に与える傷をおもえば、そう感じてしまうのも許してほしい)治療を拒み、私との20年以上の縁を切って出て行くつもりなのである。
彼が病気になる前ならば、一緒に連れ添えたと思う。しかし、本人は長年の病状の中で解離を起こしたり、目が合わせられなかったり、不安症が強すぎたりする事実を正常だと思っているので、突然生き方が変わってしまったと認識しているのだ。私から見たら、夫婦して闘病の結果やむなしとなるわけだ。
本当に、精神的な病はプロの手を借りてほしい。
いたずらに長引いてしまって、壊されてしまった我が家の軌跡をこうやって晒すのは、みなさんに同じ轍を踏んでほしくないからである。
私は以前、夫と、夫のメンタルに振り回されて子供も心のバランスを崩した時期に精神科に相談に幾度か行っている。そこで言われることはいつも同じだった。「あなたが強すぎる、あなたが完璧すぎる。旦那さんは劣等感を感じている可能性があります」
強いサイドはいつも抱え込まなくてはならない。強いからといって、感情がないわけではない。
今回、もっと穏便に離婚への準備をなすことだってできたはずなのに、ぶちまけてしまった夫を見て、私より夫の精神面を優先するべきだと思った。
彼にとって8年間は何だったのだろう?私にとっては別人になった彼を理解して守り、愛そうとする日々だった。
これからは、別居して落ち着いてもらい、子供が大学を卒業したら離婚するまで、彼の望む適度な距離で彼と私の間を行き来する子供を守ろうと思う。
しかし、別居前から夫の子供へのサポートが甘く、自分のことばかりで、子供の暗い顔にも気がつかない。
私まで切り捨て、次は子供の信頼まで失うつもりだろうか?
長い月日の中で父親不在の生活を送ってきた。母親が父親の代わりをすること、それは子供への混乱をきたす。それでも私はやるしかなかった。
これからは夫が母親の代わりも担わなければならない日々が増える。
親権は私が持つので、とにかく不自由なく育ってきた子供が不安定な日々の中で怯えてしまわないように導こうと思う。
もちろん、別居しても現在慰謝料も何ももらえるあてもない。当面の婚姻費の一部(家賃)をもらう程度だ。私はいちから自分の持ち物を揃えなければならない。長年のセックスレスや、不在について、一切の詫びは彼にはない。
理解も歩み寄りも拒まれてきた8年間の最後は、まるでギャンブラーの気分だ。全部すっからかんになった挙句、相手を心配している。
それでも強い方は最後まで抱え、与え、守るのである。それは形が変わっても、子供を授かった以上、何も変わらない。
本当の愛情って何だろうと思う。結果が出なくても愛せることだと自分では思っている。そして、相手が必要なものを与えてあげられることだろうと思う。
できる範囲のことをして、「はい、愛情!」という脆弱な愛情を提供する夫、自分の範囲内で愛する夫から習ったことは、
「弱いその場しのぎの優しさは、積み重ねても本当の愛にはならない」ということ。
弱い愛を否定しない。それも愛だけれど、崩れやすく、日持ちしない、保身のための愛にすぎない。
私は腹をくくって、夫を手放し、子供を社会まで送り届け、仕事に邁進しようと思う。
寂しくないと言ったら嘘になる。
けれど、もう、8年間の目を合わせてもらえない、心を開いてもらえない、体も触れ合わない、ただの母親のためだけの存在はまっぴらだ。
恋愛をするかはわからないけれど、ゆっくりとこれからは自分を大事にして素直に生きる方法を思い出そうと思う。
Copyright© 2008-2016eclat_plus All Rights Reserved. 家庭内別居ナビゲーターのeclat_plusです。ながらく家庭内別居をして参りましたが、今年より8年の家庭内別居を抜けて、いよいよ離婚にむけて別居へ突入します。経験をいかして家庭内別居の女性支援を行えたらなあ、と思っています。こちらのブログも徐々に手を加えて行きます。ツイッターアカウントは@eclatpluskbです。
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8年前に夫がノイローゼになった。全く人が変わってしまった。けれど、子供と共に懸命に受け止め、別人になってしまった彼を認め、理解してきた。 しかし、彼は私が妻だというかつての生活を、母親の部分をのぞいて、受け入れてこなかった。男女ではなくなって、もう8年である。 服薬も治療...
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別居が決まってもパパとママ 子供の前でいきなり夫が離婚をぶちまけ、「離婚の上、家事従事者としてなら俺の買う家に子供が大学卒業するまでなら居候していいよ、ただし家のローンも払ってね」という、びっくり仰天の条件を丁重にお断りして一週間。 大学に入る子供は、とても愛されてきた...
2016年3月11日金曜日
2016年3月7日月曜日
家庭内別居から別居へ
8年前に夫がノイローゼになった。全く人が変わってしまった。けれど、子供と共に懸命に受け止め、別人になってしまった彼を認め、理解してきた。
しかし、彼は私が妻だというかつての生活を、母親の部分をのぞいて、受け入れてこなかった。男女ではなくなって、もう8年である。
服薬も治療も拒み、解離をおこして私や子供に声を荒げたり、思い込みの記憶に固執して覚えもないのに責められる症状は、今も残る。
感情の起伏も激しく、目を合わせられず、片付けられず、頼んだ家事も三年以上放置ということもままある。
帰宅は深夜、休みは別々。
母親としての家事や義務、父親不在の家庭で父親役と自分の心をコントロールする日々。こなす中で子供のメンタルも崩れた時期が長かった。
それでもここ数年、夫の最大の負担であったと思われる経験を全て、自らがしたあとで、ようやく分かり合えると思い暮らしてきたのだ。
だが、夫は何も変わっていなかった。
8年前、心が変わってしまってから私の譲歩も理解も意味など全くなかったのだった。
振り返れば、私は8年間、ただ育児のためと経済的な支えの一部として夫には存在していたらしい。分かり合えない、やはりやり直せないと言いながら、具体的な行動は何一つ夫のサイドからおこしてくれなかった。毎回そう聞くたびに懇願した。あなたもそういうなら動いてください、と。彼は動かなかった。
私は動き続けた。キャリアがアップしたら、だとか、彼の趣味をもっと理解したら、だとか、色々と動いた。動き続けた。何が気にくわないのか、理解できなかったから、別人となった夫ともう一度夫婦になろうと試みていた。8年前から数日前まで。
寄る年波には勝てない。昨年のはじめに疲労で体を壊してから、親の大病が重なり、やむなく一時的にフルタイムを抜けた。親の介護をしながら、子供の大学受験を支え、空いている時間で資格を取り、アルバイトもしていた。
そんな私を夫は「言い訳をして働かない母親」と子供には言ったらしい。ショックだった。8年間、休みもほとんど家にいないし夕飯も子供と食べない男が何を言うのだ、と思った。
離婚は子供が大学に行ったタイミングでと、昔から話し合っていた。けれど、少しずつメンタルが落ち着いて見えた夫と、色々とすれ違いがあっても、もしかしたらもう一度やりなおせるのではないかと、考え始めていた矢先に引越の話が持ち上がった。
彼は私に買う家はないと言った。子供には買えるから離婚して他人になった上で子供の面倒をみて、さらに家のローンを払うためにフルタイムに復帰して自分の母親の面倒を見ろと言ってきた。
あきれたことに、その提案に私が喜んで乗ると思っていたというのだ。
つまり、夫にとっては夫婦として心を込めて暮らしてきた私とは真逆に、最初から私をそうとしかみていなかったということなのだろう。
8年間の家庭内別居の生活を振り返ってきて、過去、このブログ用に書かれた自分の文章を見てみると(今は自分しか読めないようになっています)、最後まで結論を変えなかった、好き勝手に振る舞い、壊し続けて、ただ受け身のまま、私を厭ってきた夫との日々が思い出される。
こんな結果が待ち受けているなら、私はこんなに全身全霊で愛することもなかっただろう、と思える。
子供が成長するまでの8年間は24時間、朝も晩も仕事の間も寂しかった。昔の優しかった夫を思い出して、再婚も考えたけれど、結局は夫が元に戻る日を願って、あらゆる努力をした。
全部無駄だった。
夫と出会って23年となる。初恋の人だった。青春も、キャリアが積めるはずの時間も全部家庭に捧げた。
全部無駄だった。
けれど、私だけには「苦しい時も病める時もあなたの伴侶として愛しぬくことを誓いますか?」という婚前の誓いを全うしたという自己満足がのこった。
そして、からっぽの心が残った。
離婚のために家庭内別居から別居に切り替える話し合いを始めた。
家庭内別居から別居まで8年は長すぎる。よく耐えた。そして、本当によく自分を殺した。殺しすぎて、もう本当の自分がどこにいるのかわからなくなった。
このあと、私が別居から離婚までどうやって自分を取り返していくのか、私もまだ知らない。気が向いたら、またここに書き残そうと思う。
追記/離婚を受け入れた日に、偶然、一番苦手だったジャンルの国家資格合格がわかりました。たいした資格ではないのですが、今まで書いたり、ナレーションをしたり、教えたりしてきた自分が、まったく違う仕事への切符を手にした気分です。これは私の武器となるでしょう。またひとつ、できることが増えそうです。
しかし、彼は私が妻だというかつての生活を、母親の部分をのぞいて、受け入れてこなかった。男女ではなくなって、もう8年である。
服薬も治療も拒み、解離をおこして私や子供に声を荒げたり、思い込みの記憶に固執して覚えもないのに責められる症状は、今も残る。
感情の起伏も激しく、目を合わせられず、片付けられず、頼んだ家事も三年以上放置ということもままある。
帰宅は深夜、休みは別々。
母親としての家事や義務、父親不在の家庭で父親役と自分の心をコントロールする日々。こなす中で子供のメンタルも崩れた時期が長かった。
それでもここ数年、夫の最大の負担であったと思われる経験を全て、自らがしたあとで、ようやく分かり合えると思い暮らしてきたのだ。
だが、夫は何も変わっていなかった。
8年前、心が変わってしまってから私の譲歩も理解も意味など全くなかったのだった。
振り返れば、私は8年間、ただ育児のためと経済的な支えの一部として夫には存在していたらしい。分かり合えない、やはりやり直せないと言いながら、具体的な行動は何一つ夫のサイドからおこしてくれなかった。毎回そう聞くたびに懇願した。あなたもそういうなら動いてください、と。彼は動かなかった。
私は動き続けた。キャリアがアップしたら、だとか、彼の趣味をもっと理解したら、だとか、色々と動いた。動き続けた。何が気にくわないのか、理解できなかったから、別人となった夫ともう一度夫婦になろうと試みていた。8年前から数日前まで。
寄る年波には勝てない。昨年のはじめに疲労で体を壊してから、親の大病が重なり、やむなく一時的にフルタイムを抜けた。親の介護をしながら、子供の大学受験を支え、空いている時間で資格を取り、アルバイトもしていた。
そんな私を夫は「言い訳をして働かない母親」と子供には言ったらしい。ショックだった。8年間、休みもほとんど家にいないし夕飯も子供と食べない男が何を言うのだ、と思った。
離婚は子供が大学に行ったタイミングでと、昔から話し合っていた。けれど、少しずつメンタルが落ち着いて見えた夫と、色々とすれ違いがあっても、もしかしたらもう一度やりなおせるのではないかと、考え始めていた矢先に引越の話が持ち上がった。
彼は私に買う家はないと言った。子供には買えるから離婚して他人になった上で子供の面倒をみて、さらに家のローンを払うためにフルタイムに復帰して自分の母親の面倒を見ろと言ってきた。
あきれたことに、その提案に私が喜んで乗ると思っていたというのだ。
つまり、夫にとっては夫婦として心を込めて暮らしてきた私とは真逆に、最初から私をそうとしかみていなかったということなのだろう。
8年間の家庭内別居の生活を振り返ってきて、過去、このブログ用に書かれた自分の文章を見てみると(今は自分しか読めないようになっています)、最後まで結論を変えなかった、好き勝手に振る舞い、壊し続けて、ただ受け身のまま、私を厭ってきた夫との日々が思い出される。
こんな結果が待ち受けているなら、私はこんなに全身全霊で愛することもなかっただろう、と思える。
子供が成長するまでの8年間は24時間、朝も晩も仕事の間も寂しかった。昔の優しかった夫を思い出して、再婚も考えたけれど、結局は夫が元に戻る日を願って、あらゆる努力をした。
全部無駄だった。
夫と出会って23年となる。初恋の人だった。青春も、キャリアが積めるはずの時間も全部家庭に捧げた。
全部無駄だった。
けれど、私だけには「苦しい時も病める時もあなたの伴侶として愛しぬくことを誓いますか?」という婚前の誓いを全うしたという自己満足がのこった。
そして、からっぽの心が残った。
離婚のために家庭内別居から別居に切り替える話し合いを始めた。
家庭内別居から別居まで8年は長すぎる。よく耐えた。そして、本当によく自分を殺した。殺しすぎて、もう本当の自分がどこにいるのかわからなくなった。
このあと、私が別居から離婚までどうやって自分を取り返していくのか、私もまだ知らない。気が向いたら、またここに書き残そうと思う。
追記/離婚を受け入れた日に、偶然、一番苦手だったジャンルの国家資格合格がわかりました。たいした資格ではないのですが、今まで書いたり、ナレーションをしたり、教えたりしてきた自分が、まったく違う仕事への切符を手にした気分です。これは私の武器となるでしょう。またひとつ、できることが増えそうです。
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